一葉の孤高と二千円札

十数年ぶりくらいで、天声人語を読みました。
樋口一葉の記念館がリニューアルしたそうで、その話でした。
終盤までは記念館および一葉について普通に語られているのですが、シメがなかなかいけてます。
ちょっと引用すると:
「館を巡り終えて、まことの詩人の肖像が印刷された札を、1枚取り出してみた。他の札と違って、5千円は札束にはなじまないようだ。使われる時も1枚だけのことが多い。一葉は、札になっても一葉か。」
確かに、「5」の通貨というのはシングルトン、単独前提ですよね。「5」が2枚あることに気づくと、失敗したような気になります。また、「1」が5枚、いや6枚程度でも「5」に交換すべき意義はあまり感じません。すぐに使うことを考えると、「1」× 5, 6で持っていた方が便利なわけで。「5」の通貨が存在意義を持つのは、ほんのわずかの隙であり、かつ2枚はいらない孤独な貨幣です。
そこを赤貧と無理解の中に夭折した一葉を重ね合わせ、かつ紙の「一葉」と掛けるとは座布団一枚!って感じです。
それに比べ、「2」という無意味極まりない二千円札を企画した政・官・民の有象無象の志の低さよ (w